日記

なんとなく街を歩き、名前のついたことも、お金が必要なこともしたくないと、思って

長い、1日の休日

0時にいつも仕事が終わり、2時ぐらいに寝て

そこから7時半には目が覚める。老人のような目覚めの良さ、。

雨続きの近頃が嘘のような晴れ。いつも、わたしの休日には天気は良いことが多い。ベランダに洗濯機があるから、本当に晴れていると助かる。洗濯物を外にしか干したくない。5月は風も心地よいし、程よく冷たく、本当に本当にありがたいと思う。そういえば、昔は火や光の神様になにか献上をしたり、そうやって崇める習慣があったのだろうと思う。そういうことを考えた。6月は雨を疎まず、水の神様にありがたく思わなければならないのか。

そういえば、雨の日の車の運転は水の中を運転してるみたいだと、この前思った。自分がまるで水槽の中にいるみたいな。“魚になった気分だよ”と、佐藤伸治の歌詞にあるけれど、そのまんまだ。車の中でその歌を口づさんだ。

今日は晴れていて、家で図書館で借りた韓国語のテキストで、勉強でもしよう..と思っていたけどあまりにも天気がよくて、家にいるのが退屈に思った。カメラを持って外に出て、写真を撮りに出かけるかと思った。日は強く、肌が焼けると思った。少し焼けたかもしれない。Tシャツに汗ばむ感覚が、懐かしくなった。これが8月だと湿気とかが混ざるのか。5月はまだ良い。風もあるし、光も穏やかで。

そういえば毎年5月は、運動会の晴れた匂いがする。これを共有する相手がいない。晴れた匂い。空気が殺菌されているようなクリアな匂い。運動会は嫌いだった。そのことを毎年思い出す。毎年毎年、子供の頃の記憶と、季節はリンクしていて、一生子供の暦が、学校の行事と重なり、思い出させられるのは、いつまで続くのか。

わたしは人よりも小学校の記憶が強いと思う。心の中にずっとそのままの温度で沈んでいる。本当に今でも昨日のことのように思い出せる。

散歩のことに戻る。

ずっと川沿いを歩いていた。歩きながら散歩は散文詩だと思った。散る、点々としたもの。

決まりきったものが多い。人も場所も管理されていて、きっちりと枠の中に収まるように形作られている。それに対して、

植物であったり

スピードの異なる物たち(人、車、自転車)それはリズム

風や雨にさらされて変化していく、外に置かれた物の美しさがあると思う。

偶然を作り出すものの中に美しさがある。人も本来は偶然的な生き物なのに、直接的で、散歩のようなふらふらした出会いをほんとに放棄してると思う。

時間も、無駄に感じた。いつも仕事で時間を取られ、休日なのにわたしは何でこんなふらふらと1人散歩をしてるのかと思った。でもその無駄の中に、人の管理される感覚からの解放があると思って、どんどん無駄を作って行こうと思ったし、面倒なこともやっていこうと思った。

そうして、帰りにはスーパーに寄って、しっかりご飯を作って食べた。どんどん時間を使っていこうと思った。

Twitterは使うというより、使われてしまう。

自分が生み出す物は使っているという感覚で、確かな物で

そうやって、前進的なものに身を預けたいと思った。